感動の先にAIがいた
先日、SNSでペプシの非公式CMが流れてきた。
投稿にはすでに多くの反応がついており、私も興味本位で見てみることに。
・・・なんていいCMなんだろう。そう思った。
イングランドの名門サッカークラブ、マンチェスター・シティを去った監督、ジョゼップ・グアルディオラ。愛称ペップ。
彼を街で見かけ、声を上げながら追う必死な少年。
振り返るペップ。ペプシ片手に「Si」。頬を赤らめる少年の、うれしそうな顔。
見た方はわかると思うが、そう、ダジャレだ。でもただのダジャレじゃない。あのペップもペプシを選んでいるという広告的要素が、少年と名監督の心温まるやりとりとダジャレのおもしろさという感情が、複雑に絡み合ってブランディングCMとして昇華されている。
めちゃくちゃいい。最高だ。
そして、その投稿のリプライを見てみたくなった。だって、同じような称賛のコメントで溢れているはずだから。
しかしそこにあったのは、予想もしていない一言であった。
「これ、AIですよ」
なんだ、AIか。
私は心のときめきを失った。本当にがっかりした。
私は特にAIに対して肯定的でも否定的でもない。
ただ、このがっかりの正体を今回は言語化してみたいと思う。
AIだと分かることで失われるもの
まず言いたいのは、このCM自体、AIだろうと非公式だろうと素晴らしいということだ。
その素晴らしさは構成にあり、文脈にある。
哀愁、安堵、ユーモア、そして広告がハイレベルで混じり合い、ペプシのブランドを高めていると思う。
一言で言えば、いいもの見たな。の読後感である。
しかし、AIだとわかった瞬間に失われるものがある。確実にある。
それはストーリーにおける感情の嘘、だ。
憧れのペップを見かけて走り出す少年の、「行かないで」とも読み取れる切なる思い。
街を去るペップの背中から滲み出る哀愁。
ペップと出会えた少年の湧き上がる笑顔。
そこにある人間ならではの感情が、AIだとすべてなかったことになる。そもそもないのだ。
確かに広告は最初から嘘だ。役者は芝居をする。
でもそこには生身の人間がいて、ストーリーの人物に成り切って演技をする。だから人は映画やドラマを見て泣く。小説や詩や短歌も同じことが言える。
しかし、全てがAIとなると、そこには人も何もいない。ゼロだ。ただの蓄積されたデータがゼロからイメージをつくっている。すべてがデータなのだ。
ここが、AIだとわかった時にがっかりする要因な気がする。
「この映画すごい!監督天才!あの人の演技もすごかった」
「この小説おもしろい!こんな話を書けるなんて作者はすごい」
「この曲沁みるなぁ。このアーティストの曲もっと聴きたい」
これらの感情の後、「これ全部AIです」が来ると、ものすごくがっかりするのは想像に容易いだろう。
人は、ひとの創作に惹かれる。これは広告にも当てはまると思う。
ブランディングにおいてAIの使い方は要注意
AIにできることはたくさんある。
しかし、人の心を本当に動かしたい時、AIの使い方は注意すべきである。
「なんだ、AIか」はブランドを損ねかねない。







