『VIVANT』の制作を支える「見る力」
TBSの取材記事によると、『VIVANT』第2シーズンでは、生成AIが映像の特殊加工に使われています。
第11話では、病院屋上の機械室が爆発する場面や、監視カメラに映るボイラー室の爆発などがその例です。
制作では、静止画生成AIの「Nano Banana」で炎の細かなイメージを作り、それを動画生成AIの「Veo3」で動かしています。
言葉にすると簡単ですが、実際には狙った映像を得るまでに、かなりの試行錯誤があったといいます。
そこで印象に残ったのが、担当した大村正俊さんの言葉です。
「やはりVFXやCGの確かな知見や技術が不可欠」
生成できることと、その映像を作品のなかで成立させられることは別の話です。
炎の動きは本当に自然なのか。
前後のカットの温度や速度とつながっているか。
そもそも、その画がこの場面に必要なのか。
AIが出したものを見て、「使える」「使えない」と判断する。その違いは、結局のところ、作り手がそれまで何を見て、何を知り、どれだけ作ってきたかに左右されます。
このことは、映像制作に限らないと思います。
AIによって専門性が不要になるというよりも、専門性を土台にしながら、その外側まで見渡せる人が強くなる。
技術的に成立しているかだけではなく、作品として何を伝え、何を見せず、どこに違和感を残すのか。
作る技術が広く開放されていくほど、こうした「見る力」の差は、かえって目立つようになるのかもしれません。
刺激だけでは、『その人が作る理由』にならない
中国のショートドラマ業界では、AIを用いた量産がすでにかなりの規模で進んでいます。
studio15のコラムが紹介する『中国微短剧行业发展白皮书(2024)』によると、2024年の中国ショートドラマ市場は約504.4億元と推計されています。一方、中国国家電影局が発表した同年の映画興行収入は約425億元で、ショートドラマ市場がこれを上回る規模となりました。もちろん映画産業全体との比較ではありませんが、ショートドラマが一つの巨大な市場になっていることは確かです。
TBSの現地取材では、1日に100話以上のAIドラマを制作する会社も紹介されています。
一方で、studio15のコラムでは、逆襲や復讐といった定型的な物語の乱立や、量産による既視感も課題として挙げられています。
短い時間で人を振り向かせ、続きを見たいと思わせる。
これは簡単なことではありません。むしろ、今のコンテンツ産業において非常に重要な技術だと思います。
強い刺激を求め続ける視聴者を「ドパガキ」と呼ぶこともありますが、その需要を「浅いもの」と切り捨てればいいとも思いません。人が何に反応するのかを知ることは、作り手にとって必要だからです。
ただ、その反応だけを追いかけ続けた先には、別の問題があります。
「ここで裏切ると伸びる」
「ここで復讐すると離脱しない」
「この見せ方なら反応が取れる」
そうした型が蓄積され、共有され、AIによって再現しやすくなっていくと、型を上手に再生すること自体は、少しずつ差別化にならなくなっていきます。
すると比較されるのは、速さや本数、あるいは価格です。
刺激を作れることは必要です。けれど、それだけでは「その人に任せる理由」にはなりにくい。
成果につながる型を理解したうえで、その外側に何を持ち込めるのか。
そこに、これからの作り手の差が現れてくるのではないでしょうか。
なぜ、歴史や教養が必要なのか
ここで必要になるのが、技術とは少し違う種類の知識だと思います。
表現の歴史を知ること。
文化や社会との関係を知ること。
自分が「いい」と感じたものを、ただ感覚で終わらせず、なぜそう感じたのかを考えてみること。
いわゆる教養です。
教養という言葉には、どこか堅苦しい響きがあります。
けれど、僕がここで言いたいのは、難しい専門用語を知っているとか、本をたくさん読んでいるとか、そういうことだけではありません。
むしろ、自分の中に比較できる世界をいくつ持っているか、ということに近い。
今流行しているデザインだけを見ていれば、それが自然と「正解」に見えます。
でも、違う時代の建築や絵画を知っていたり、別の国の映画や音楽に触れていたりすれば、「こういうやり方もある」という別の基準を持てる。
選択肢が増えるというより、ものを見る距離が少し変わるのだと思います。
そして歴史を知ることの面白さは、完成した形だけではなく、「なぜそれが生まれたのか」まで考えられることにあります。
なぜ、その時代にはその表現が必要だったのか。
どんな技術が登場したのか。
人々の暮らしや価値観は、どう変化していたのか。
そこまで見ていくと、過去の表現は引用するための資料ではなくなります。
歴史は、古い正解を覚えるためのものではない。今の当たり前を、一度当たり前ではなくしてみるための材料なのだと思います。
そう考えると、教養は知識量の競争ではありません。
目の前のものを、そのまま受け取らないための距離です。
過去を知ることが、「こうだったらいいのに」につながる
未来を考えるというと、誰も見たことのないものをゼロから発明するようなイメージがあります。
でも実際には、人間は完全な無から何かを想像しているわけではないようです。
認知心理学の論文「エピソード科学:記憶研究の新たな視点」では、過去の経験を思い出すときに働く記憶の仕組みが、未来の出来事を想像するときにも関わり、過去の記憶の要素を組み替えながら新しい場面を構成するといった研究が紹介されています。
もちろん、これは「歴史を学べば創造性が上がる」と直接証明した研究ではありません。
ただ、未来について考えるときにも、僕たちは自分の中に蓄積したものを材料にしている。
そのことは、ものを作る仕事を考えるうえで、かなり示唆的です。
歴史や文化を知ることで、今とは違う暮らしや価値観に触れる。
そこに現代の技術や、自分が感じている違和感を重ねてみる。
そうすると、単純な「新しさ」とは少し違うものが見えてくることがあります。
「こういうものが昔あった」から一歩進んで、
「じゃあ、今ならこうだったらいいのに」
という発想が生まれる。
ここで思い出すのが、原研哉さんの『欲望のエデュケーション』という考え方です。
人々がすでに欲しがっているものを、より効率よく差し出す。
それだけではなく、まだ自覚されていない欲望や希望にかたちを与え、それを目の前に置いてみる。
原さんは未来を構想する仕事について、まだ見ていないものを「こうだったりして」と提示していきたい、とも語っています。
この「こうだったりして」という距離感は、とても重要だと思います。
未来を断言するのではなく、可能性を一つ置いてみる。
見た人が、「たしかに、こっちの方がいいかもしれない」と思える状態をつくる。
いま求められているものを、うまく作ること。
それと同時に、まだ誰もはっきり求めていないものを見つけ、「こんなものがあったらいい」と形にしてみせること。
クリエイティブの面白さは、むしろこちら側にあるのではないかと思います。
まとめ
AIによって、試すことも、作り直すことも、量産することも、以前よりはるかに容易になりました。
人が何に反応するのかを捉え、成果につながる表現を作る能力は、これからも当然必要です。
ただ、それだけを制作の目的にしてしまえば、作り手は少しずつ交換可能な存在になっていくのかもしれません。
何をよいと感じるのか。
なぜ、それをよいと思うのか。
いまあるものとは違う何を想像できるのか。
そして、それを最後まで形にできるのか。
審美眼、教養、想像力、実行力。
言葉にして並べれば少し大げさに見えますが、結局は「見ること」と「作ること」の両方を、簡単に手放さないということだと思います。
AIで何が作れるかを知ることはもちろん重要です。
でも、その前に、自分は何を美しいと思うのか。
何に違和感を覚えるのか。
これから、どんなものがあったら嬉しいのか。
その感覚を、知識や経験によって少しずつ確かなものにしていく。
AI時代のクリエイターに必要なのは、もしかすると新しい能力ばかりではありません。
これまで人が積み重ねてきたものをよく見て、そのうえで、自分なりに「次はこうだったらいいのに」と言えること。
それが、これからますます重要になっていくのではないかと思います。







